だ・か・らっ、Dia“l”yだってばさ!

これは『戯れ言』です。また、“Diary”ではなく“Dialy”です。つまり、日記に似て非なるものです。 所謂『日記』ではありません。お間違えの無いようお願いします。(^^;A

D800の36.3メガピクセル

D800が発表されて、なんだか世間が喧しい。
36.3メガピクセルってのはそんなに凄いことなのだろうか。
製造技術的には凄いことなのかも知れないが、そんなの興味ない。
これまで24M程度だったのが36Mと概ね1.5倍になったのだから凄いのだろうか。
D700, D3Sの12M比較で3倍になったから凄いのだろうか。


冷静に考えてみよう。
1.5倍だの3倍だのってのは中途半端なので、4倍異なると仮定しよう。
素数が4倍と言うことは、面積比で4倍ということである。
一辺方向、つまり一次元方向では2倍である。
とある直線が有ったとして、これまで100ピクセルで表現されていたモノが200ピクセルになっただけである。
「線分解能が倍になったのは凄い」とも言えるが、「線分解能はたかが倍にしかなっていない」とも言える。


撮像素子はCameraの一構成部品であり(非常に重要な部品ではあるが)、Cameraは写真を撮るための道具(最近は動画も撮れるが)である。
評価は撮影される『絵』で評価されるべきである、と言う点についてはなんの異論もない。
が、36Mであると言うプラシーボ効果が大きいのではないか?
3倍というのは線分解能にすると1.732倍でしか無く、1.5倍では1.225倍でしかない。
製造技術という点と、これが製品に(しかもかなり安価に)なったと言う面以外では、さほど大騒ぎすることでもあるまい。
さらに画素数が増えて1億画素になっても、3倍になるだけであり、線分解能はD800の1.7倍程度である。
ま、12M比では8倍以上であり、線分解能も2.9倍ほどになるので、かなりの差ではあるが。


高感度や価格その他にしわ寄せが行かないのなら、画素は増えて貰っても一向に構わないと思っている。
よく「このセンサーを活かせるLensが云々」と言うご意見を目にするが、撮像素子の解像度 > Lensの解像度であるべきだと思っているので、これは本末転倒ではないかな。
撮像素子を活かすためにLensがあると言う考え方もアリだろうけど、Lensを活かすために撮像素子があるべきだと個人的には思っているので。


D800の話に戻そう。
D800では、

  • FX: 7360 x 4912
  • DX: 4800 x 3200

であるようだ。 (by カタログ)
因みに、D7000は、

  • 4928 x 3264

である。
D800でDXにクロップするとD7000未満である。
つまり、D800の撮像素子は解像度(分解能)においてD7000と同程度なのである。
凄い凄いと大騒ぎするレベルではないことが明らかである。
(何度も言うが、この撮像素子を製品化したという意味では製造会社が、この価格でD800を出したという意味ではNikonが、それぞれ賞賛されるべきであることになんの異論もない。)
D800に50 mmを付けて撮影したモノと、D7000に35 mmを付けて撮影したモノを、同じ大きさにして比較すればD800の優位性は明らかではある。
が、どちらにも50 mmを付けて、かつ写っている部分の大きさを同じにして比較すれば(撮像素子自体や画像処理エンジンの性能差・世代による差を別にすれば)同等なのである。
16MなMFTで同じ比較をすれば、面分解能はさらに高いことになる。
“わん”でやれば、さらに。
「写っている部分の大きさを同じにして比較」ってのはさほど無意味な比較ではない。
ピクセル等倍観測がまさにこれに相当する。
つまりは、D800の36Mなんてさほど大騒ぎするモノでもないのだ。
特に、私のように多画素を必要としていないものにとっては。である。
(手ブレだLensの解像度がって意味でも。)
因みに、16MのFT素子をフルサイズ化すると、60M程度かな。